伊藤幸弘とは
伊藤幸弘プロフィール
様々な問題を抱える少年少女とその親たちのカウンセリングなどのボランティア活動を続ける中、2,000人超の相談者と向き合ってきた。
自身も母を亡くした悲しさから非行に走った過去がある。
約30年前に暴走族・総長という経験を経て、その後は世の中のために生きることを誓った。また、NHKほか各局などで、活動ドキュメントが放送され、全国から問い合わせが殺到し、注目を浴びた。国会からも青少年問題特別委員会の参考人として招れ、教育文化に大きな衝撃を与えた。
現在は「ITO総合教育研究所」として組織を拡大し、一人でも多くの家族に明るい未来を提供するため今日もまた全国を駆け回っている。
伊藤幸弘 経歴
手のつけられない非行少年だった
昭和27(1952)年、神奈川県平塚市生まれ。小学生の時に最愛の母親が病死、父親の事業失敗も加わり甘えん坊でわがままな性格から、「愛情不足の淋しさ」を引きずって中学時代から非行の世界へ足を踏み入れた。
傷害事件で高校を中退、少年院送致の保護観察処分を受けた。その後はまじめに仕事をしていたが、暴走族に襲われて仕返しを決意。先輩と数人で小さな暴走族を結成し、喧嘩と暴走を繰り返したあげく,構成員15,000人の全国組織「相州連合」へと拡大。2代目総長として非行少年の頂点に君臨していた。
だが悪いことは続くものではない。警察の徹底した暴走族壊滅作戦により逮捕され、道路交通法違反で禁固1年の実刑判決を受け刑務所で服役した。
これからどうしよう、愛情で更正、涙の決意
そんな伊藤が更正を果たせたのは、周囲の人々の暖かい愛情であった。これからどうやって生きていこう。淋しさに打ちひしがれて刑務所の門を出たその時、彼の目に飛び込んできたのは、以前勤めていた自動車修理工場の社長の姿であった。
連絡した訳でもないのに、知り合いから借りた高級外車で出迎えてくれたという。
伊藤は言う。
「くずみたいな自分のために、特別な車を用意して迎えに来てくれた。そこまで自分のことを思っていてくれたのかと、涙が止まらなかった」と。
そして社長はうなぎをご馳走してくれ、伊藤は工場に連れて行かれた。
そこで待っていたのは、全従業員の拍手の出迎えであった。
「よくがんばったな!お帰り!」
笑顔の出迎えに、もう工場に戻れないと思い込んでいた伊藤は再び涙した。工場の人々はその後もしばらくの間、伊藤が昔の非行仲間の元に戻らぬようにしてくれたという。
ある人は毎日自宅に呼んで夕食をご馳走してくれ、ある人は休日に釣りに誘ってくれた。またある人は何回も伊藤の部屋を訪ね、夜中まで話し相手になってくれた。
そんな人々の愛情を受けて伊藤は
「二度と人に迷惑をかけるのはやめよう、これからは他人のために生きよう」と決意したという。もし出迎えたのが社長ではなく、付き合いのあった暴力団関係者であったら、また違った人生になっていただろう。
ある母親の依頼、非行カウンセラーの誕生
伊藤が非行カウンセラーの道を歩き始めるきっかけとなったのは、今から20年以上も前のこと。
ひとりのある母親の依頼であった。
「うちの子どもと話してほしい・・・」。母親によると非行に走り親の手に負えなくなった息子を立ち直らせるのは、伊藤以外にはいないということだった。
「俺が他人の役にたつのなら・・・」
その直後、伊藤は自分のすむアパートにその少年を住まわせ、不思議な共同生活が始まったのである。
仕事をしながら東奔西走の日々、体当たり子直し!
それから20年間、伊藤は親から依頼を受けて様々な少年少女と接してきた。
非行行為を繰り返す中学生、シンナー中毒の青年、暴力団の男の元に走った少女、校内暴力で暴れまわる中学生グループ、暴走行為で保護観察をうけた少年、息子の家庭内暴力で家族崩壊の危機に直面した家族、不登校の少年少女。
伊藤は仕事が終わった後や休日を使って、毎日のように車を走らせ少年少女に会いにった。
結婚して子どもができた後も自宅に少年少女を預かり、食事を提供し、更正指導を続けたのである。時には自宅近くにアパートを借り、10数人の少年少女に共同生活をさせて面倒を見ていた時もある。それらの全てに伊藤は常に真剣勝負で望んできた。それはまさに体当たり子直しであった。
彼らはそんな伊藤の真剣さと優しさと厳しさを目の当たりにしながら、自らの人生を真剣に考え、時間をかけて自律していった。だがあくまでもボランティア活動であった。
伊藤は親に謝礼を要求するどころか、逆に自分の給料を交通費や食事代や遊びに連れて行く費用や他人に手助けを頼んだ御礼など、少年少女の為につぎ込んで来たのである。
親はほとんど伊藤に金を払うことはなかった。
「俺自身が社会に迷惑を掛けてきたのだから、その罪滅ぼしみたいなものさ。どんな子どもでも絶対に甦る。」伊藤はそう話す。こうして伊藤が甦らせた少年少女は、20年間で100人超えた。
親が変われば子どもも変わる!
伊藤が少年少女に対して行ってきたことは、個々の相手によって様々な違いはあるが全員に対して共通していることがある。それはまず彼らの話をじっくり聞き、相手の存在感を認めてあげるということ。それによって彼らは伊藤に共感を抱き始める。そして本人に夢や希望を見つけさせ、約束という縛りの中で実現させていくのだ。
その過程の全てに他のカウンセラーには真似のできない、伊藤ならではの実体験に基づいた「鋭い洞察力と的確な判断」が秘められている。
伊藤は言う。
「お互いに対等な人間対人間の極当たり前の付き合いをしているだけだよ」と。
その言葉を物語るように、伊藤は時に激しく激怒し、時に優しく微笑みかけ、時に一緒に涙する。
さらに伊藤は少年少女への指導と並行して、親の悩みを和らげ親への指導も行う。伊藤の大きな力によって良い方向へ変化してきた彼らであっても、その原因が親である限りは、親が変わらなければ元に戻ってしまう。
親も変わるべきところは変わる必要があり、そのために伊藤は親に対してもきついことをズバズバ言うし、親のとって伊藤は怖い存在でもある。つまり、子どもたちは大人社会をそのまま反映したものであり大人が変われば子どもも絶対変わる伊藤はそれを信じて疑わないのである。
会社を辞めて、伊藤幸弘教育研究所を設立
ここ数年、伊藤の元には相談や講演依頼が後を絶たず、有給休暇を全て使い果たし、自分の時間が全く取れないほど忙しくなった。過労が重なり、年に数回倒れて点滴を受けながら仕事をするという状況にまで追いこまれていたのだ。もはや仕事とカウンセリング活動を両立させることなど不可能になり、どちらかを選ばざるを得ない状況となった。
伊藤は悩んだ。
そして出した結論が仕事を辞めて、カウンセリング活動を本業にするということであった。「板金塗装の仕事は他にもできる人がいる。でも自分を求めて頼ってくる人がいる。それは自分にしかできない。」
伊藤は苦笑しながらそう話し、99年3月に伊藤教育研究所を発足させた。今後は相談や指導、講演活動を有料にし、それを研究所の運営資金と伊藤家の生活費にあてるという。だが研究所を設立してからの生活は楽ではない。
設立にあたって
僕はこの春、サラリーマン生活に終止符をうって、青少年コーディネーターとして一本立ちし「伊藤幸仏教育研究所」を設立しました。
これまで出した著書やテレビ報道の影響で、全国から相談や講演の依頼が殺到し、サラリーマンと「子直しボランティア」の二足のわらじを履きつづけるこに、限界を感じたこともありますが、何より、近年ますます荒れていく子どもたちの現状を風のあたりにするにつけ、この国の将来に強い危機感をいだいたからです。
「伊藤幸弘教育研究所」では、運営基盤を会員制組織とし、会員向けの青少年および子育て実践情報の提供や、個別相談、直接指導を精力的に行なうつもりでいます。 「親が変われば、子どもも変わる」これこそが僕の信念です。
二十一世記を担う子どもたちが、自分らしく、幸せに生きること、そして世の大入たちが、子どもたちの幸せを常に考え、彼らを一人前の社会人として、世に送り出す手助けをすること。
それを切に願うばかりです。